「宗教二世」という言い方がマスコミでも取り上げられ、一般の方々にも知られるようになりました。その頃から、伝統的な教会で人格形成をした人たちとの共通点を感じるようになり、伝統的な教会で人格形成をした人を「教会二世」と呼ぶようにしています。
筆者は教会二世です。そのことはあえて前面に出さず、臨床心理士、牧師として、教会という環境で人格形成をした数多くの人たちと関わってきました。信仰の継承についても、いろいろな事例を見てきました。
あることをきっかけに、宗教を背景にした人格教育が一歩間違えると恐ろしいことになると感じるようになりました。
数年前、社会的に問題視されていたある宗教団体の内部事情がマンガで出版されました。出したのは、その団体の中で育ち、のちに脱会された方です。その勇気に敬意を覚えました。
一臨床家として興味が湧いたので、買い求めて読み、衝撃を受けました。そこで行われていたことは、自分が幼い頃体験したことと酷似していました。専門職の権威も、仲間意識の作り方も、外部の人たちへの線の引き方も、まったくと言ってよいほど同じでした。
うすうす感じていたとはいえ、宗教を背景にした人格教育に問題があることを認識した出来事になりました。
総理をされた方が暗殺されるという悲惨な事件が起きました。その事件は思わぬ結果をもたらしました。その事件を機に、いわゆる宗教二世の生きづらさが一般の方々にも広く知れ渡るようになったことです。
マスコミは、宗教二世の問題をセンセーショナルに取り上げ、地上波でもドキュメンタリー番組を放映しました。
その内容は衝撃的でした。宗教二世の方々の証言も、かつて読んだ書籍の内容と並んで、キリスト者家庭で人格形成をした方々の証言と酷似していました。
そのときの感触は、「ああ、そういうことか。やっぱりね」でした。
カウンセリングルームにはいろいろな方が来談されます。キリスト教の環境で人格形成をしたクライエントに特化しているわけではありません。しかし、宗教と何らかの関わりのある方が少なくありません。
そのような方がことばにしてくださるエピソードは、宗教二世だけでなく、教会二世が、親の養育に苦しんだ現実、今も宗教や親の考え方に苦しんでいる現実、さらに、宗教団体とその専門職からハラスメントを受け、深く傷ついた現実です。
依存症になり、今は啓蒙活動に携わっている方の講演会に参加する機会がありました。ご自分の過去について赤裸々に話されたことに感動しました。そのことがきっかけで、もう一度自分を見つめ直し、もっと深いいやしを体験したいという気持ちが湧いてきました。素直な気持ちでした。自分の中に収めてバランスを取ってきた怒りや悔しさの感情をもう一度感じてみることは、一人の当該者がさらに深いいやしを体験するために必要なプロセスではないかと感じました。でした。自分の中に収めてバランスを取ってきた怒りや悔しさの感情をもう一度感じてみることは、一人の当該者がさらに深いいやしを体験するために必要なプロセスではないかと感じました。
続く

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